「ありがとうございましたー」
花屋なんて、その時初めて行った。
以来、お世話になる事もなく、今に至る。
の微笑みを浮かべながら買った花は、ラベンダーだった。
紫の上品さと、小さな花の可愛らしさ。
一目見て、に似ている気がした。
花屋の店員が教えてくれた、ラベンダーの花言葉。
“あなたを待っています”
に贈りたい言葉だ。
オレは、を待っている。
例え余命が1ヶ月でも、それよりも遥かに短い命だとしても。
オレは、を待とう。
もう、逃げ続けるのはやめなければ。
++++++
ヤマちゃんから貰った住所を頼りに着いた病院。
看護士に訊き、の病室を目指す。
そこまでの距離が、やけに遠く感じた。
“ ”と書かれた病室の前で、立ち止まった。
深呼吸を数回繰り返し、意を決してノックをした。
コンコン…
「どうぞ」
ノックの音に続いて、すぐにの声がした。
今思うと、あの時の声は、とてもか細く消えそうな声だった。
ゆっくりとドアを開くと、淡い水色のパジャマを着たの姿が目に飛び込んできた。
そして、の驚いた顔も。
「島崎、君…」
「……よう…」
ぎこちなく挨拶をして、ドアを閉めた。
の部屋は一人部屋で、オレと以外は誰もいなかった。
その空間にいるは、図書室で見たあの時とは随分違う気がした。
表情も、雰囲気も、の呼吸でさえも。
時が止まったかのような錯覚を起こして、オレはに釘付けになる。
慌てて頭を振って、右手に持っていた花束を渡した。
「これ、大したもんじゃないけど」
「わー!ラベンダーだ…いい香り…しかも沢山だね!小さい頃北海道に行ったの思い出すなぁ…」
「ラベンダーは匂いも楽しめるし、それにドライフラワーにしたらずっと花も楽しめるって…」
「ありがとう、島崎君。あ、椅子座っていいよ」
オレはベッドの横の椅子に腰掛けた。
が嬉しそうにラベンダーの花束を見つめるのを見て、少し安心した。
あの時のとは違う気がするけど、それでもあの笑顔は変わりなかった。
優しい、あの小さな微笑。
「よく此処がわかったね。誰かに聞いたの?」
「あー…まぁ、な」
「でも、嬉しいな。ホントに島崎君が来てくれるなんて」
“ホントに”?
「お母さんが、言ってたの。島崎君に私の事に関してのメール送ったって」
「そう、か…」
「いつか来てくれたら、なんて思ってたけど…ホントに来て貰えるなんて、夢みたいだよ」
あの時のメールから、何日経っただろう。
オレはあの時からずっと逃げていて。
逃げ続けていて。
オレはの都合なんて考えずに、自分の都合で勝手に逃げていた。
……心が、痛くなる。
「ねぇ、島崎君」
不意に、が口を開く。
「最期に、“慎吾君”って、呼んでいい…?」
が、綺麗に笑った。
いつもの小さい微笑みではなく、綺麗に、はっきりと。
“最期”の言葉が、オレの全身を凍りつかせた。
全身縛り付けられたかのように、オレは一切動けないまま、の笑顔を見ていた。
目が、離せない。
「知ってるんだ、私。お母さんは一生懸命隠してたけど…」
「昔、お母さんの部屋で、私の病名が書いてある紙を見つけちゃって…それで、図書室で調べたしてたんだ」
「でも、仕方ない事だもん。生まれつきのものだったみたいだし」
「それに、図書室で慎吾君に逢えただけでも…私は凄い嬉しかったよ」
耐え切れず、に手を伸ばした。
頭を引き寄せて、軽く抱き締めた。
泣きそうなのを、悟られたくない。
「慎吾君」
「……何だよ」
「優しいね、慎吾君は」
「優しくねぇよ、ちっとも」
オレの胸で、がくすりと笑う。
そんな一つ一つの事で、涙が出そうになった。
それを堪えるのに必死で、上手い言葉が何一つ見つからなかった。
「ごめんね、慎吾君」
「っ…何がだよ……」
「私のワガママ、叶えてくれて、ありがとう」
「……何、が…」
「もう“最期”の私に会うなんて…慎吾君が、辛いだけなのに……」
違う、ワガママじゃない。
オレに会いたいって思ってくれた事は、凄く嬉しいから。
そうやって、自分を責めるなって。
「………」
最初で、最後だった。
オレはの名前を呼ぶ。
弱々しく、の手が、オレのシャツの端を握った。
「折角出逢えたのに…、さよならになっちゃうの、嫌だよ…慎吾君……」
それが、オレにとっての、の最期の言葉だった。
翌日、は永遠の眠りについた。
オレの渡したラベンダーの傍らで、“沈黙”した。